二年前、中国地方のとある町が地図上から消えた。

 とてもとても、小さな町だった。

 人口は僅か二〇〇〇人弱。四方を険しい山々に囲まれ、たまに道ですれ違う顔も馴染みばかり。若者は少なく、交通は不便で、皆が皆、いつも欠伸を噛み殺し、コンビニやファミレスなんて夢のまた夢。隣家の御年配が餅を喉に詰まらせれば、それがその年一番の大事件と囃し立てられ、隣町の小学校に通うだけでもバスで二時間、着いたら着いたでちょっとしたタイムスリップ気分に陥る──そんな、時代から取り残されたような町だった。

 その町が、二年前、無くなった

 ADDの襲撃に遭って。人も家も何もかも焼かれて。

 最後は対地攻撃の余波で決壊したダムの水と、抉られた山の向こうから押し寄せた海水で、町が存在した盆地には巨大な湖が出来上がった。

 F-2バイパーゼロ。今はそう呼ばれている少女の、大切な故郷。

 なのに──自らの手で護れなかった場所。

 そして現在。

 妖精学園のブリーフィングルームに、バイパーゼロの叫び声が谺した。

「……どうして!? なんでワタシは出撃しちゃいけないの!?」

 既に室内からは半数以上の生徒が姿を消している。ベースに緊急発進(スクランブル)が掛かり、ブリーフィングが終れば、あとは作戦を決行するのみ。少ない人数で日本を守護する戦闘機少女たちに余裕はない。下された命に従い、皆、持ち場に向かったのだ。

 しかし、この緊急を要すなか、ただ一人──バイパーゼロだけが下知に否を唱えた。

 彼女の目の前には、日本ピクシーズの総指揮官たる、クラス委員長のF-15Jイーグル。食ってかかるビキニ姿の少女を、腕組みした姿勢で厳しく睨めつけている。

 そんな二人の様子を、F/A-18ホーネットは少し離れた場所で見守っていた。すぐ横には同じチームメイトの、エフワンことF-1やT-4ドルフィンも控えている。

 突けば破裂するような空気のなか、果たしてイーグルが冷静な声音で応じた。

「どうしても何もありません。出撃メンバーがいれば、待機メンバーもいる。それはいつものことでしょう?」

「はぐらかさないでよ! この状況で、なんでワタシが居残り!? おかしいじゃない!」

 確かにな、とホーネットも僅かに思う。何しろ現在、出現が確認されているADDは戦艦タイプ──正式には『メルクリウス級』と呼ばれる敵なのだ。

 KK波の波長が従来のそれとは若干差異があるため、またぞろ新型である可能性が高いようだが、それでも強力な対艦能力を有すバイパーゼロを外す道理はない。優秀な攻撃機型のモジュールを纏う戦闘機少女は他にもいるが、ことメルクリウス級相手となれば彼女の出撃はまず確実。というより、あらゆるシチュエーションに対応できるよう組まれたホーネットたちのチーム自体が鉄板だ。なのに、わざわざ別のチームを、というのは不自然だろう。

 そう、単純な戦略上の観点からだけで判ずるならば

 だがしかし、である。

「駄目です。今のバイパーさんを出撃させるわけにはいきません」

「ッ、なんでよ!? 委員長の分からず屋!」

「なら逆に尋ねますが……バイパーさん、自分の故郷が再びADDに蹂躙されているのを見ても、貴女はちゃんと戦闘機少女として振る舞えますか?」

 そんなのッ、と反駁しかけたバイパーゼロだが、しかしそれ以上は言葉が続かなかった。

「……ま、無理でしょうね」

「で、ありますな」「……せやなぁ」

 ホーネットが小声でぽつりと洩らせば、傍らのエフワンやドルフィンも顎を引く。そんなことは誰の目にも明らかだった。今のバイパーゼロは間違いなく冷静さを欠いている。

 なぜ──ADDが再び彼女の故郷に、姿を現したのかは分からない。

 二年前。

 今よりもっと遥かに人手が足りなかった頃。

 日本各地に別個に頻出するADDの脅威で、妖精学園はたびたび機能不全に陥ったらしい。

 その頃まだ学園にいなかったホーネットは詳細を知らないが、エフワンとドルフィンの話によればバイパーゼロの故郷は、そんな火の車のなか間隙を縫うように行なわれた襲撃で、冷たい水の底へと沈められたのだそうだ。戦闘機少女たちが現場に到着した頃には、もう何もかも手遅れだったと聞いている。

 バイパーゼロの故郷は既に無い。今はただ、過ぎ去ったものとして静かに眠っている。

 巨大な湖と化した彼の地は封鎖され、近隣の町や村にも避難勧告が出されて、未だに住民たちは戻ることを許されていないらしい。海上で出現するパターンが多いADDが国土内で、しかもそんな人気のない場所に現れたのは、本当にまったく不思議という他はなかった。

 しかし、それでも。冷静ではいられないのだろう。

 たとえ人なんて誰もいなくとも。たとえ町の名残すら既になくとも。

 当事者のバイパーゼロにとってそこは、誰にも二度と踏み荒らされたくない、ある種の聖域とも呼べる場所のはずだから。

「何もかも手遅れだった、か……」

 ホーネットは人知れず呟いた。三年前、妹(ライノ)を喪った無力な自分を思い返しながら。

 次いでホーネットは「よしっ」と密かに腹を決めると、口論を続けるバイパーゼロとイーグルに近づいてゆく。パンパンと柏手を打ちながら、なるべく余裕ぶって告げてやった。

「はい、やめやめ! 平行線よ、二人とも!」

「ッ……ホーちゃん!?」「ホ、ホーネットさん?」

 目を白黒させる二人に向かって続けて、

「委員長の主張はもっともだけどさ、コイツが駄目って言っても聞かない奴なのは、いっつも苦労させられてる委員長が一番分かってるでしょ? 懲罰房にぶち込んだって大人しくなんかしてないって。最悪、先週のあたしみたいに、勝手に出撃するかもしれない」

「それは……」

「だったら、ここはいっちょ『自分の大切な場所を護りたい』っていう、バイパーの強い気持ちに賭けてみたら? ただでさえ人手不足なのに、適任者を遊ばせとくのも間抜けだし」

 バイパーゼロがぱぁっと表情を輝かせる。逆にイーグルは逡巡しているようだった。

「……危険です。今のバイパーさんを作戦に加えるのは」

「分かってる。だから、あたしたちが最大限フォローする。あたしもエフワンも対艦攻撃は得意だし、弾幕をいなしてくれるドルフィンもいる」

 肩越しにちらりと後ろを振り返れば、エフワンとドルフィンが頷いていた。なんの相談もなく突然こんなことを言い出した自分に、どうやら二人とも同意を示してくれたようだ。

 だから、ホーネットは迷いなく真摯に言葉を連ねた。

「お願いよ、委員長。バイパーを行かせてあげて」

「………………」

「手をこまねいて、ただ見てるだけなんて、そんなのつら過ぎるわよ。あたしはバイパーに、二度もそんな思いさせたくない」

「ホーちゃん……」

 バイパーゼロが神妙な面持ちになる。数日前、夜の屋内プールでした話を、思い出したのかもしれない。照れ隠しについ横目で、「なんて顔してんのよ」と睨んでしまう。

 そしてほどなく、イーグルのほうが不承不承といった体で折れた。

「──分かりました。今回、敵はメルクリウス級の新型である虞があります。確かに、ファントムさんたちだけでは、手に余る相手かもしれませんから」

「さっすが委員長。お義姉様より話が分かるわね」

「や、ご意見番殿と比べるのはさすがに……」「鉄の女やしなぁ、トムキャットはん」

「た〜だ〜し! いいですか!? くれぐれも無理だけはしないように! ホーネットさんはチームリーダーとして、きっちり責任を持ってバイパーさんを監督すること!」

 イーグルに念を押され、ホーネットは軽い所作で、だが力強く敬礼を返す。エフワンとドルフィンも静かに気炎を上げる。降って湧いた出撃許可に、バイパーゼロは身を震わせていた。

 ホーネットは肩を竦めてそんな彼女に向き直り、

「ほら、どう? これで満足?」

「……うん。ありがとう、ホーちゃん」

「ったくもう、あんま世話焼かせんじゃないってぇーの」

 俯き加減に礼を述べてくるバイパーゼロにそう返せば、エフワンとドルフィンもこちらにやって来て好き勝手なことを宣い始めた。ようやく普段の軽やかな空気が戻ってくる。

「おお! ホーネットさんが言うと、なんだか説得力アリアリでありますな?」

「ほんになぁ。先週あんだけみんなに世話を焼かせた駄目っ子が、ちょっと見ぃひんあいだに一端の口を利くようなりはって」

「我が振りを省みて、他人の振りを直すとは、これいかに! であります!」

「できれば、もっと早う直しなはれ? 周りが迷惑しますよって」

「はい、そこの二人うるさい! ここぞとばかりにイジりに来ない!」

 けれど、そんな僅かに弛緩した空気のなか、バイパーゼロだけが依然として。

「……ありがとう。ありがとうね、ホーちゃん。エフワンちゃんと、ドルちゃんも」

「? バイパー?」

「ワタシは……大丈夫だから。頑張るから。もう絶対、あんなことは……二年前みたいなことは、ADDに繰り返させないから。ワタシが、パパとママのお墓を、護ってみせるから」

 ホーネットは思わず眉を顰めた。決意表明、にしては些か様子が変だ。どことは言えないものの、何かが引っ掛かる風情である。

 やがて顔を上げたバイパーゼロはしどけなく口元を緩めており、それはいつもどおりの彼女らしい笑顔だったのだけれど──否、いつもどおりの笑顔だからこそ、か。声を荒げていた先刻までの剣幕以上に、例え難い不安をホーネットの胸に渦巻かせた。

「………………」

「あ、あの、バイパーさん? ほんとのほんとに、大丈夫でありますか? なんか思い詰めてないでありますか?」

 同じ違和感を嗅ぎ取ったのだろう、ドルフィンが難しい顔で押し黙り、エフワンがおずおずとバイパーゼロを慮る。だが、当の本人がそれに何か答えるよりも早く──

「それはどういう意味ですか!? ダークスターさん!」

 広いブリーフィングルームを、イーグルの悲鳴じみた声が貫いた。

 慌ててそちらを振り返れば、どうやら出撃メンバーの一人、RQ-3ダークスターから連絡があったらしい。スマホを耳に当てたイーグルが血相を変えている。

 仲間たちが現地に到着するにはまだ早過ぎる時刻だが、索敵担当のダークスターは高度なレーダー装備を有す戦闘機少女だ。一足先にトラブルの気配に勘づいたのかもしれない。あるいは、先んじて発艦したアポロ級やディアナ級と、既に会敵しているという線も考えられた。メルクリウス級が他のADDを、己が艦載機として産み出す能力を持つためだ。

 しかしながら、続くイーグルの台詞より伝わってくる状況の深刻さは、ホーネットを始め室内にいる少女たち全員の、予想の遥か斜め上を行っていたのである。

「ま、待ってください、ダークスターさん! 話がまったく……というより、声がよく聞こえないんです! ADDの通信妨害のせいか、さっきからノイズが酷くて……え、砲撃? それにスピード違反……って、何がです!? ちょっ、もしもし!?」

 そこから一拍、二拍、暫しのあいだ沈黙があり、

「……え?」

 次にあがったF-15Jイーグルの声は、いっそ不気味なほど明瞭に響いた。

「ファントムさんが、撃墜された……?」

 時計の針を少しだけ戻そう。

 学園より出撃した三個小隊(エレメント)のうち、二個小隊──F-4EJファントム㈼がリーダーを務める四人は、それぞれが戦闘機モジュールを背負い、日本海上空を全速力で飛翔していた。

「まったく……よりにもよって、あそこに再びADDが湧くなんて!」

 目標である新型とおぼしきメリクリウス級は、二年前、日本ピクシーズの救援が間に合わなかった彼の地──かつて一つの町が存在していた、中国地方の山間部に現れたらしい。

 ファントムたちが関東に位置する妖精学園から、真っ直ぐ内陸を通って現地に向かわなかったのは、メリクリウス級が産み出す戦闘機(ファイター)型ADDと会敵した場合、人里の真上で戦闘になるような愚を避けるためである。一旦、沖まで出て迂回するコースが取られたのだ。

 一応、保険として残る一個小隊──同じピクシーズのキ201火龍と、その従妹である試製橘花が、現在、低高度で敵のレーダーを躱しつつ、背後から急襲をかけるかたちで同ポイントへ急行している。ファントムたち四人は、いわば陽動役なのだった。

 で、その道すがら。

 一張羅のゴスロリ服を風にはためかせ、ファントムは重ねて吼えたものである。

「はん! 厚顔甚だしいとは、まさにこのことですわね! いいでしょう、たとえ日中でも月は常に天に座していますわ! 妾(わらわ)の暗黒魔法でギッタギタにして差し上げます!」

 じきに中国地方の沿岸部が目視で確認できようかという位置だ。一番槍を任された手前、迫る激戦の予感に武者震いが止まらない。魔力(ルナティック・エナジー)も充溢してゆくのを感じる。

 だがしかし、そんなこちらの意気高さとは裏腹に、

「なんかファントムはん、いつになくキレキレやなぁ。厨二病がノンストップやん」

「あう……ボクたちの任務、ちゃんと囮だって分かってるのかな……?」

「分かってない。たぶん絶対。賭けてもいい」

 などと、編隊飛行を組んだ残りのメンバーは、どいつもこいつも暢気なものだった。

 関西弁のF-20タイガーシャーク、ボクッ娘のF-117ナイトホーク、そして無口&無表情のRQ-3ダークスターという面子である。前者二人は、普段、一緒に飛ぶことも多い仲だ。

「……もう! 貴女がたときたら!」

 ファントムは憤慨し、空中で地団駄を踏む、という器用な真似をした。

 非戦闘員のダークスターは戦いが始まれば後方支援だが、実際にミサイルと砲弾に晒されることになるシャークとホークまで、なんだか困惑したような様子というのは、ファントムにとって少しばかり腹立たしい。大仰に手を振って発破をかけてやる。

「なに、気の抜けたこと仰ってますの!? これは挑戦──そう、妾たち日本ピクシーズに対する挑戦ですのよ!? ここで燃えずに、いつ燃える気ですの!」

「火龍はんやあるまいし、そないなこと言われてもなー」

「う、うん……燃えるのは、ちょっと……」

「そのテンション、すごくウザい」

「くっ……なんたる温度差! でも負けませんわ! この月光の女神(レディ・ムーンシャイン・ダウン)たる妾に、ようやく活躍の機会が巡ってきたんですもの! 二年前の雪辱戦、見事に果たしてみせますわ!」

 わざわざ持ってきた相棒のサイドワインダー──同名の空対空ミサイルではなく、ガラガラヘビのぬいぐるみだ──の首根っこを握り締め、更に瞋恚の炎を燃やすファントム。

 けれど、そこでタイガーシャークが不意に言った。

「うん、それや」

「? 何がですの?」

「せやから、その『二年前』っちゅーやつや。その感覚が、うちら三人にはあらへんねん」

 彼女の言葉に、ナイトホークとダークスターも、こくこくと首を縦に振る。

「そうだね。ボクたちまだ、その頃、学園に在籍してなかったから……」

「バイパーゼロの故郷が、っていう話だけは聞いてる」

 ようやく仲間たちの不可解な反応に理解が及び、ファントムは遅ればせながら冷静さを取り戻した。そういえば、このなかで二年前のことを経験しているのは自分だけだったな、と。

「色々と苦しい時期やったんやろ? 妖精学園、一杯一杯だったらしいやん」

「……ええ、そうですわね」

 言葉少なに肯定する。深々と嘆息すれば、漂った白い息はすぐに、寒風に吹き散らされた。

 あの辛さを、苦さを、彼女たちと共有できないことが、ひどくもどかしい。

 当時、連日連夜の戦闘で疲弊していたなか、更にADDに同時多発攻撃を仕掛けられ、自分たちは後手後手に回るざるを得なかった。世界的に敵の攻勢が強まり出した時期だったのだ。

 アポロ級の一群が日本海方面から侵入を果たし、運悪くバイパーゼロの故郷を発見して牙を剥いたのも、そんな最悪のタイミングでのことだった。

「…………っ」

 思い出す。すべてが手遅れに終わったあと、暫らく火が消えたようだった学び舎を。

 イーグルは総指揮官として悔し涙を流していた。トムキャットは戦力増強が急務だと憤っていた。ベテランの一人だったエフワンはプライドを砕かれ、まだ学園に来たばかりだったドルフィンは呆然とし、他の面々も揃って一様に打ちひしがれていた。ファントム自身、暫らく失意から満足に動けなかったと思う。

 だのに、そんななかバイパーゼロだけが。

 自分や火龍らと共に出撃し、湖底に沈んだ己が故郷を、直に目にした彼女だけが。

 クラスの誰よりも早く復活し、どこか痛々しげに笑っていた。

 みんなが罪悪感に駆られる必要なんてない、力及ばずゴメンねなんて言わなくていい、失敗しちゃったなら次に活かそう──そんなふうに仲間たちを元気づけながら。

 失われてしまったモノには、もう『次』なんてないのに。

「……ええい! 思い出したらまた、なんかムカついてきましたわね!」

「え!? きゅ、急にどうしたの、ファントムさん?」

「いつもの病気とちゃう? 身体に封じた月の魔力が暴走して、『なんか右腕とかその他諸々が……!』ってあれや。いっぺん頭、医者に診てもらったほうがええで?」

「違いますわよ! ちーがーいーまーすーっ!」

 とにかくッ! とファントムは沈みかけた己に喝を入れる気持ちで、

「せっかくの機会! 妾がバイパーゼロのぶんまで鬱憤を晴らしてやりますわ! 貴女がたも級友の仇討ち代行とあれば、嫌でもやる気が湧いてくるでしょう!?」

「ん……まあ、そない言われたらな。そもそもピクシーズはADDと戦うもんやし」

「う、うん。ボクたちも別に、やる気がないとかじゃ……ないんだよ?」

「なら、急ぎますわよ! 委員長からは『可能なら妾たちの手でメリクリウス級を撃破しても構わない』と言われていますもの! 火龍と橘花に先を越される前に──」

 が、そのときだ。

「待って」

 いつの間にか会話に不参加を決め込んでいたダークスターが、いきなり思い立ったかのような唐突さで声をあげた。淡々とした口調ながら、聞く者が聞けば分かる強張りが、そこには内包されている。要警戒──暗に含まれた示唆を悟り、ファントムは表情を引き締めた。

「どうしましたの、ダークスター?」

「何か変。敵ADDのいる場所から、異常なKK波を感知」

「……奴さんが浮かんどる湖って、まだこっから結構な距離あんで? よう分かんなー」

「ダ、ダークスターさんは、目敏い子だから」

 確かにダークスターの索敵能力は信用に値する。戦闘機モジュールに詰まれたレーダーの精度のみならず、本人の純粋な資質であるKK波への敏感さも含めて。

 けれど、彼女の資質にそれ以上、頼るまでもなく、

「「「ッ!?」」」

 直後には、ファントムたち三人も、その異常を感じ取っていた。

 前方──遥か彼方より、不可視の津波の如く押し寄せた、莫大なKK波。

 飛行中だったファントムたちは、反射的に急停止して色めき立つ。ダークスターならばともかく、この距離で自分たちにまで感じられるKK波となると只事ではない。それは即ち、LeD粒子の操作による次元干渉の規模が、極大クラスであることを示しているからだ。

「な、なに……? なんですの、これ!?」

 ファントムは慌てふためくが、異常事態(アクシデント)は続けざまに到来した。

 再びダークスターが口を利いたのだ。今後こそはっきりと、焦燥も露に喉を絞って。

「──散開っ! 物理保護を最大出力!」

 次の瞬間、ソレが来た。

 まず初めに感じたのは衝撃。遅れて熱。更にあとから風と音。

 さながら前触れもなく発生したツイスターのよう。空間そのものが溶けたかと錯覚するほどのエネルギーを秘めた途方もない『何か』。

 わけが分からないながらも、言われるままにLeD粒子を操っていたファントムは、そのとき同時にダークスターをも庇っていた。彼女はKK波の感知能力こそ優れていても、LeD粒子の操作は不得手──ゆえにこそ非戦闘員なのだが──だからで、そんな彼女が常からぬ様子で警告を発したことに、咄嗟に危機感を覚えたからである。よく考える前に身体が動いていた。

 果たして、自分の判断は正しかったのだろう。

 激甚な衝撃にもみくちゃにされながら、ファントムは意識の隅でそれを理解した。

「──────────ッッッ!」

 物理保護が容易く突破される。正体不明の攻撃が身体を焼く。ひとたまりもなく吹き飛ばされ、満足に悲鳴をあげる暇さえない。混乱と苦痛のなかで死を覚悟する。

 けれど、同じように宙を舞う仲間たちを目路に捉え、更に背中から後方のダークスターとぶつかったのを感じて、自分は今、チームリーダーなのだと僅かに意力を取り戻す。

 KK能力を全開。物理保護を再展開。虎の子の魔力もフルスロットル。

「こッ……のぉぉおおおおおおおおおおおおお!!」

 気合一声、雪崩打って迫る猛威を押し返す。仲間たちまでも滅ぼさんとする運命に頑として抗う。二年前のように失って、無力感にただ頭を垂れるのは、もうこりごりだから。

 やがて嵐が過ぎ去れば──どこかで三者三様の声があがった。

 すべては刹那のうちの出来事である。だが、どうやら仲間たちは無事らしい。

 ファントムはボロボロの一張羅を翻し、なんとか口角を吊り上げて見栄を張った。敵に一矢も報いてやれないのは少々残念だったものの、

「ふ、ふふん……やっぱり妾は、月光の女神です、わね……」

 その台詞を最後に、ぷっつりと意識が途切れた。

 そして現在。

 事の経緯をあらかた聞き終えたあと、ホーネットはスマホに向けて叫んでいた。

「それで!? ファントムたちは無事なの!?」

 場所は日本海沖。件の敵ADDの長距離攻撃を警戒し、陸地から過度なほど距離を空けた、およそ三〇海里の地点。事態が切迫していると分かり、兎にも角にもという気持ちで学園を発って、今しもここまでやって来たところである。周囲には戦闘機モジュールを吹かし、ホバリングするいつもの面々──エフワン、ドルフィン、そしてバイパーゼロがいた。

『無事です。全員、幸いなことに』

 イーグルの言葉にホッと胸を撫で下ろす。自分たちと入れ違いで学園に帰還したであろうファントムたちの安否が、飛行中もずっと気懸かりで仕方がなかったのだ。

『ただ、命に別状はありませんが、皆さん暫らく安静だそうです。特にファントムさんは、軽度の火傷と骨折が、複数箇所に及んでいるらしくて……』

「その程度で済んで御の字よ。聞いた限りじゃ生きてるのが不思議なくらいだわ」

「むぅ……ダークスターさんの警告があったとはいえ、よく皆さん十全に反応できたものでありますな? 特にファントムさんは自ら盾にもなったというのに」

「大したもんやけど、あの人、元気になったら絶対、イタい感じに増長しますえ?」

 トランシーバーモードで通信を行なっているため、同様にスマホを耳に当てたエフワンやドルフィンが口々に言う。後者の意見にはホーネットも賛成だった。

「──で、いったい何がどうなってるわけ? なんでファントムたちはやられたの?」

『そのことなんですが……まず、この画像を見てください。今、送信します』

 数秒後、スマホに送られてきたのは、ひどく不鮮明な画像だった。

 解像度もさるものながら、それ以前に濃い霧と虹色のモヤ──可視化された大量のLeD粒子で、はっきり言って何がなんだかよく分からない。どうも衛星写真のようなのだが。

「……パパとママの、お墓だ……」

 呆けたように呟いたのは、バイパーゼロだった。事が事なので仕方がないとはいえ、普段に比べて格段に覇気がない彼女は、手に持ったスマホを凝然と見下ろしている。

 ホーネットはチームメイトのそんな様子を案じながら、

「ってことは、これが敵が陣取ってる例の湖? あぁ、確かに言われてみれば、ブリーフィングで見たマップと似てる……っぽい、かな?」

『すみません。本当はもっと近くから航空写真でも、と思ったんですが、内陸側から向かった火龍さんと橘花さんも、途中で無数のディアナ級に捕捉されてしまいまして……』

「? 戦闘機型ADDがもう相当数、産み出されているのでありますか?」

「……その割にはうちら、まだ『被害が出たー』みたいな話、聞いとりまへんえ?」

『実際、出てないんです。目標は湖に居座ったまま動いていません。ただ、周囲の山脈を越えようとする飛行物体のみを、ディアナ級たちに見張らせているみたいで。FGAFは「今は戦力を整えている最中なのだろう」という見解を示しています』

 なるほど、そういうことか。件の湖は周囲を山に囲まれた身動きの取りづらい地形だ。ならばいっそ、その天然の要塞じみた内部に引き篭もり、あらゆる障害を正面から排除できる兵数を揃えたのち、悠々と出撃・進軍、日本の中枢を一挙に陥落せしめんという腹なのだろう。

「……ADDに知性があるってのは知ってたけど、ここまで狡猾な真似をしてくるなんてちょっと意外ね。もっと単純なデジタル思考しかできない連中だと思ってた」

『ええ、本来そのはずなんです。今回は何もかも既存のケースから外れていますね』

 イーグルは僅かに躊躇うような間を置いたのち、

『そもそも不自然というなら、こんな際立った地形に適したADDが、都合良く現れるというのが既に不自然なんです。なんというか……ちょっと出来過ぎている気が』

「それは、ADDが狙って現れた、ということでありますか?」

「……さすがに無茶な理屈と思いますえ? もしADDが好きな場所に出現できるなら、各国の首都上空にダイレクトで現れて、とっくの昔に爆撃ドカンしてますやろ?」

『はい、そうですね……私の考え過ぎかもしれません』

 釈然としない様子のイーグルだが、今は細かい部分はどうでもいい。重要なのは、結果として威力偵察を果たしたファントムたちの、その必死の頑張りを無駄にしないことだ。

「それで本題は? この画像と敵の攻撃に、いったいどんな関係があるの? せっかく用意してくれたとこ悪いけど、ADDなんて一機も映ってないじゃない、これ」

『いえ……それが映ってるんです』

 なぜか申し訳なさげに告げられ、ホーネットは片眉を跳ね上げた。

 だが、改めて矯めつ眇めつしてみても、やはり画像にそれらしき影はない。あるのはただ、霧とLeD粒子、湖とおぼしきそれ、あとは連なった山々だけだ。

「……これ、この湖の真ん中に浮いてるやつ」

 けれど、そこでまたしてもバイパーゼロが言った。

「なんか小島っぽく見えるけど、違う。二年前はこんなのなかったもん」

 彼女が画像の一部を指し示す。薄っすらと垣間見えるそれは、殆ど黒い点でしかなく不明瞭だったが、確かによく目を凝らしてみると、自然物とは趣が異っている気がする。

 が、しかしだ。もし本当にこれがADDだとするならば。

「ちょ、ちょっと待って! ブリーフィングで聞いた湖の面積と照らし合わせると、この画像に映ってる黒いヤツ……なんか、やたらデカくない!?」

『報告によれば、一〇〇〇メートルはあるだろうとのことです』

「「「一〇〇〇メートル!?」」」

 バイパーゼロを除く三人で、思わず声を揃えてしまう。

『形状も、従来のメリクリウス級とは、随分、違っているように見えます。少なくとも戦艦らしくはない。なんだか巨石建造物(モノリス)みたいな……いえ、やっぱりよく分かりませんね』

「そ、それのどこがメリクリウス級よ!? FGAFの奴ら、アタマ沸いてんじゃないの!?」

「KK波の反応が似ているだけで、ほぼ別物ということでありますか……」

「そんなデカブツ、満足に動けるんどすか?」

『動けない、ということはないはずです。ただ、速度はたかが知れているでしょうね。どうも長距離攻撃の一点に特化している敵のようですから』

 長距離攻撃。そう、ホーネットたちがもっとも知りたいのはその点である。

『正体は、純粋な質量弾。従来の艦砲射撃と同じです。ダークスターさんが撤退の際、LeD粒子に分解される前の金属片を、海中に発見しています』

「……艦砲射撃? ミサイルとかじゃなくて?」

 メルクリウス級の脅威は、『戦闘機型ADDの生産』『強固な物理保護』『接近した際の凄まじい弾幕』など色々挙げられるものの、砲撃は戦闘機少女たちにとって物の数ではない。あんなものを喰らうのは、よほどすっとろい奴だけだろう。

「ただの艦砲なんかで、ファントムたちが墜とされるわけないじゃない。そりゃまともに貰ったら物理保護でも身を護り切れないでしょうけど……当たりゃしないわよ」

「敵が扱う砲弾のサイズが規格外のうえ、超高速の曲射を実現しているんです。砲撃時の副次効果が絶大なため、回避は非常に困難と予想されます』

「……副次効果?」

 大質量が空間から空間へ猛スピードで移動すれば、当然、それによって様々な弊害が射線上に巻き起こる。大気の攪乱による烈風、轟音、摩擦熱。砲弾を対象に直撃させることよりも、それらの被害に重きを置いた兵器──ということだろうか? 俄かには信じ難いけれど。

「なら、ファントムさんたちは副次効果(そちら)にやられたわけでありますか」

「せやけど、そんなん現実に起こりますのん? 『超高速の曲射』ってなんどす?」

 ADDが山間に閉じ篭っている以上、外敵を討つには遮蔽物を飛び越えるかたちで、なんらかの攻撃を行なうしか他に術がない。だが、ロケットモーターも積んでいない砲弾では、大きく弓なりに射撃すれば着弾する頃には速度がガタ落ちだ。大した二次被害など見込めまい。

 けれど、イーグルの回答はやはり至ってシンプルであり、

『──字面のとおりです。方法はまだ定かではありませんが、ダークスターさんが得たデータを元に解析した結果、曲射された砲弾はマッハ二〇を超えていたと分かりました』

「にッ……!?」

-ホーネットは怖気立って天を仰いだ。

 晴れ渡った冬の空。そこには一点の曇りもない。しかし、それでも背筋が震えるのを止められなかった。目標から十二分に距離は取っているし、高度も海面ぎりぎりまで下げているが。

「じょ、冗談でしょ!? どんな超兵器よ、それ!?」

 想像してみればいい。通常の砲弾と比しても『規格外』と評されるサイズの鉄塊が、突如、秒速七キロオーバーで頭上から降って来る様を。まさに悪夢だ。

『……敵ADDの砲撃精度は確かです。半径五〇キロ圏内はまず有効射程距離でしょう。かといって、こちらが遠間からミサイルを撃ったところで……』

「駄目よ。迎撃されんのがオチ。なんとかインファイトに持ち込まないと」

「で、でも! どうやってであります!? マッハ二○で広範囲に影響が及ぶ砲弾なんて、そう何度も避けられないでありますよ!? 連射速度だってまだ分かってないのに!」

「低空低速で敵さんのレーダーを騙して──は、やっぱ無理やろなぁ。山を越えるためには高度取らなあかんし。ほなら、海水が流入してるポイントはいかがどす?」

『不可能でしょうね。まず警戒されているはずです。ディアナ級の監視もありますから』

「ってか、よしんば接敵できても通信妨害まであるんでしょ?」

 ええ、とイーグルは短く返答したのち、続けて何やら二の句を彷徨わせ、

『そして、その……大変心苦しいんですが、もう一つ悪いニュースが。ついさきほど別のポイント、それも複数箇所で新たにADDの発生が確認されました。今、他の皆さんが急遽その対処に当たっています。こちらはアポロ級ですが、だからといって無視もできません』

「……最っ悪! このタイミングで!? 近頃、多過ぎでしょ、そのパターン!」

 とどのつまり、こういうことだ。敵は要塞の奥深くで待ち構え、現状、近づく相手だけを潰している。更に接近すれば情報を遮断され、加えてタイリミットつき。敵が頭数を揃えて本格的に動き出す前に叩かねばならない。なのに、こちらは既に四人の脱落者を出し、おまけに別の敵軍にも後方を脅かされている。必定、増援は多く望めない。さあ、どうする?

「……ワタシが道案内する。それしかないと思う」

 と、そこで静かに宣言したのは、やはりバイパーゼロだった。

 ホーネットも渋々ではあるが同意する。せざるを得ない。相変わらず様子が変であり、妙に大人しいのは不安だが、確かにここは彼女に頼る以外なさそうだ。

『はい、わたしもそれが最善だと思います。つまり、徒歩で陸路を──山中を抜けるんです。幸い皆さんのチームには、様々な環境下での作戦に慣れたホーネットさんと、サバイバル技術に長けたエフワンさんがいます。あと、確かドルフィンさんも山育ちでしたよね?』

「せやなぁ。生まれは田舎やさかい、山んなか歩くのは慣れておす」

「で、更にそこに土地勘のある人間が加われば、ということでありますね?」

 皆の視線が、自然とバイパーゼロに集まった。

 本当に案内できるのか? という無言の問いかけに、彼女はゆっくりと首肯する。

「できる。昔よく自転車で遠くまで行ったから、道路沿いに進むなら最短コースも分かる。ワタシがみんなを……パパとママや、町の人たちの、お墓まで連れて行く」

『なら、決まりですね。皆さん、すぐに行動を開始して──』

「待って委員長。確認したいんだけど、ほんとにそれで間に合うの?」

 イーグルが言葉に詰まった。どうやら彼女もタイムリミットの点を憂慮していたらしい。

 当然だろう。歩哨代わりのディアナ級の目を避けるため、頭上を樹冠に覆われた山のなかを突っ切るとあれば、たとえ国道沿いに進んでも時間が掛かる。バイパーゼロの言う『最短コース』がどれだけ近道かは知らないが、まず間違いなく半日以上は費やすと考えていい。

 半日。

 絶望的なタイムロスだ。

 メルクリウス級が他のADDを産み出すサイクルはさほどでもないし、湖に居を構えた新型は砲撃特化のため寧ろ遅い部類なのかもしれないが、それでも半日も好き勝手に振る舞わせれば大部隊を構築できるだろう。敵に肉薄できても撃破できなければ意味がない。

『ですが、他に手だてがないんです。今の状況では、この方法しか』

 イーグルが悄然とした声音で言うが、ホーネットは緩くかぶりを振った。

「いいえ、まだあるわ。もしかしたら行程を大幅に短縮できるかもしれない裏技が」

『? 裏技……?』

「山を抜けるのは変わらない。だって、それしかないもんね。でも──」

 ホーネットはそう前置きして、仲間たちの顔を見回した。エフワン、ドルフィン、バイパーゼロ。頼りになるチームメイトたち。皆にはかなりの負担を強いることになるが、

「──徒歩とは別の手段で行く

 ホーネットは、きっぱりとそう告げていた。

「おらぁああああッ!」

 キ201火龍は気合い一声、手にした太刀をディアナ級へ振り下ろす。

 次元干渉の力場を纏わせた愛刀は、すれ違いざまに敵機の腹を断ち割り、LeD粒子の血糊をパァッと空にぶち撒けた。数瞬遅れてディアナ級が散華を遂げるが、火龍はその光景を見届ける暇さえない。続けざまにこちらへ襲い掛かって来るADDに、20mm機関砲二門と30mm機関砲二門の四重掃射を浴びせてゆく。無数の敵影が蒼穹を乱れ飛んでいたからだ。

「チッ……弱っちいがキリがねーな! 元を絶たなきゃ幾ら墜としたって意味ないし、連中、全然こっちの舞台に上がって来ないぜ!」

 中国地方の作戦空域。新型メルクリウス級が出現した地点から、七〇キロほど離れた場所に広がる裾野の直上。火龍とその従妹──試製橘花は、現在、敵のテリトリーと化した山脈地帯に侵入しないぎりぎりの境界で、続々と増え続ける戦闘機型ADDの駆逐に当たっていた。

「火龍、出過ぎですよ! 報告にあった例の曲射を、もっと警戒してください!」

 こちらと同様、緊急発進(スクランブル)モードの戦闘機モジュールを纏い、橘花がディアナ級を千切っては投げしながら告げてくる。

 千切っては投げ。

 別段、比喩ではない。文字どおりの意味だ。

 橘花の緊急発進モードは、とある事情から一般的な戦闘機モジュールと、大きく隔たりがある機能を有しており──なんと、有線接続された拳状の武装が搭載されているのである。

 橘花は着物を纏った手弱女(たおやめ)然とした容姿とは裏腹に、その『ワイヤードフィスト』を豪快に振り回して、周囲の敵機を片っ端から沈黙させてゆく。殆どハエを落とすような要領だった。

「心配いらねーよ、橘花! 敵さん、まるでやる気が感じられねーもの!」

 火龍は被った帽子のつばを指で押し上げながら、

「やっぱ今は戦力を蓄えてる最中なんだろーな! こっちが近づけば無視もできねーってんで突っかかって来るが、本気で仕留めようって気概が感じられねえ!」

「気概って……ADDの気持ちなんて分かるんですか!?」

「うんにゃ、ただの勘だけども!」

 がっくりと肩を落とした橘花を、なはははっと笑い飛ばしながら、こちらの不意を衝こうと下方から迫り来たディアナ級に、迅雷の如き鮮やかな白刃の一閃。また一つ自慢の種にもならない撃破数(スコア)を稼ぐ。従来のディアナ級でこの数なら、まだ大した脅威ではなかった。

「先週のホーネットのときみたく、新型のディアナ級なら楽しめるのによ!」

「だからって、刀でADDを墜とすなんて……ッ」

「なぁに、俺なんてまだまださ! クールセイダーや委員長の古馴染み──確か、セイヴァーだったか? あのあたりなら、もっと『魅せる殺陣』を演じるこったろうぜ!」

 っていうか、拳でボッコボコにしてる奴が言うなよ、とつけ足しておくことも忘れない。

「いよいよ吹っ切れてきたみたいじゃねーか、お前のソレ! 緊急発進モード!」

「……はい! 学園の皆さんが頑張っているときに、橘花個人の感情で力を出し惜しみするのは不義に当たりますから!」

「さすがは俺の従妹! そうこなくっちゃ──うおっと!? 危ねぇッ!」

「ほら! 油断は禁物ですよ、火龍! それに、橘花たちの役割も忘れないで!」

「お、おう! 可能な範囲でいいから敵の動向を探って、もしディアナ級が人里に向かった場合は阻止! ンで、更にホーネットたちのために連中の注意を惹きつける、だろ!?」

 互いに言葉を交わしながら、阿吽の呼吸で空を舞う。だが、実のところ火龍は──いや、おそらく橘花もだが──これでもかなりトサカに来ているのだった。

 二年前の一件を知っている者にとって、ADDが再びバイパーゼロの故郷に現れ、しかも我が物顔で居座っている事実は、ピクシーズ全体への侮辱でしかない。おまけにファントムたちまで撃墜されたとあっては怒髪天も衝こうというものだ。

「ったく、ふざけた話だぜ……ッ!」

「火龍、駄目ですよ! ただでさえ、熱くなりやすい性質なんですから、落ち着いて!」

 あぁ、分かっている。分かっているとも。だが自分は火龍、Salamander(ザラマンダー)の化身だ。「熱くなるな」というほうが土台無理がある。

 だからなのか、つい従妹にこんなことを尋ねてしまった。

「……橘花はさ。バイパーのこと、どう思ってる?」

 戦闘のさなか、さしたる声量でもなかったのに、自分の声が妙に大きく聞こえた。

 橘花がハッと息を呑む。一発でこちらの質問の意図を悟ったらしい。自分と橘花は学園に入学した時期が同じだから、当然、橘花も二年前の出来事を弁えているからだ。

 ゆえに、火龍が想像したとおりの──けれど、焦点を暈した答えを返して寄越した。

「……よく笑う人だな、って」

「そうだな。ほんと、よく笑うんだよな、あいつ」

 つい二年前、あんなことがあったのに。

「バイパーさんが強いから、なんでしょうか?」

「かもな。けど、俺はそういう『強さ』はなんか違う気がするよ」

「………………」

「俺たちのことを思い出せって、橘花」

 火龍は五歳の頃──事故で両親を喪った。その件には、橘花も無関係ではない。

 少し事情が複雑なため詳細は省くが、お互いが心身に大きな傷を負った。しかながら、ようやくというべきか。先頃、日本アルプスで起きたADDの大攻勢、それを食い止める作戦のなかで、すべてのトラウマと蟠りを払拭できたのだ。

「長い時間が掛かったよな。二人して言うべきことも言わずに、さ」

「はい」

「ほんとなら、もっと早く解決してても良かったはずなんだ」

「……ごめんなさい、火龍。橘花が臆病だったせいで」

「いや、もういいんだよ、それは」

 火龍はディアナ級を斬り捨てながら、空いたもう一方の手をぱたぱたと振り、

「だって、俺たちはちゃんと乗り越えられただろ? 時間が解決してくれた。学園の奴らが支えてくれた。何より……なんにも口にしなくても、お互い心がどっかで繋がってた」

「でも、バイパーさんは違う?」

「違わないさ。そんなはずはない。けど、俺たちと同じ間違いを犯してるのは事実だと思う」

「それは、橘花たち周りの人間も含めて、ということなんですよね?」

 火龍は頷く。橘花の「臆病だった」という台詞は、まさに言い得て妙なのだと思う。

「ね、火龍。火龍は二年前、バイパーさんやファントムさんと、一緒に出撃したんですよね? そのとき、壊された自分の故郷を前にして、その……バイパーさんはどんなふうでした?」

「……ひどいもんだったぜ。見ちゃいられなかった」

 未だに思い出す。普段、笑顔ばっかりの友人だから、なおさら印象的で忘れられない。

 泣き喚けば、まだ良かったのだ。怒り狂えば、まだマシだったのだ。

 けれど、あのとき──元凶のアポロ級たちは既に去り、変わり果てた町を呆然と眺めることしかできなかった、あのとき。

 バイパーゼロは、なんの表情も浮かべていなかった。

 ATD-X1心神の雛鳥めいた無垢な面持ちや、ダークスターの単なる無表情とは違う。真正そこに何もない、ぽっかり空いた洞のような貌。それが、残酷なほど凪いだ湖面に映っていた。

「……正味のところ、『あぁ、こりゃ駄目かな』って思ったんだよな、俺」

「バイパーさんは、もう戦えないだろうな、って?」

「ああ」

 なのに、そうはならなかった。

 バイパーゼロは今も妖精学園にいる。きちんと一線級の実力を保っている。そればかりか、いつも笑って、ふざけて、ビキニで、クラスのムードメーカーの一人だ。

 だが、喜ばしいことのはずなのに──なぜだろう? 

 そんな彼女を見ていると、火龍はたまに、ひどくやるせない気持ちに駆られる。

「……情けねーよな、ほんと。これじゃ俺と橘花のパターンそのまんまだ。なまじ知った仲だから、逆に二の足を踏んじまう」

「だったら、ホーネットさんに期待ですね」

 橘花が打てば響くように言ったものだから、火龍は思わず苦笑してしまった。

「ホーネットかぁ。あいつはあいつで打たれ弱いとこあるからなー」

「あら。だから、いいんじゃないですか」

「……なぬ?」

「自分の弱さを識っている人は、他人にも弱さがあることを識っています。理解しているのではなく、当たり前に『識って』いる──だからこそ、遠慮なんてしないと思うんです」

 少しどきりとする。いい意味で、橘花らしからぬ物言いだった。

 こちらの意外そうな顔を認めたか、強くなった従妹が甘やかに微笑む。

「ふふ。未経験者は語る、ですよ?」

「──ハッ、よく言ったぜ、橘花! ちょっと惚れそうになるじゃねーか!」

「ほ、惚れ!?」

 途端、橘花が物凄い勢いで顔を赤らめた。まことに乙女チックな風情ではあるものの、照れ隠しにワイヤードフィストをぶんぶんするものだから、与撃墜率が跳ね上がってADDたちはご愁傷様だ。負けるものか、と火龍も口端を吊り上げ一層奮戦する。

 とはいえ、だ。

 手を休めないまま、霧がかった眼下の山々を見下ろし、火龍はたった今、話題に上った仲間たちのことを考えた。空とは打って変わって静まり返っている山中では、しかし現在、ホーネットたちによる過酷な敵中潜入作戦が実行されているはずだったから。

「……ホーネットの奴、相変わらずイカレてやがるぜ。まさか山のなかを戦闘機モジュールで突っ切ろう、なんてな」

 それは、一瞬の判断が生死を分ける、地獄のタイムランだった。

「ッ!」

 肌を切る風、枝葉、砂利。跳ね散る泥に、血と汗が混じる。

 霧のなか眼前に迫った巨木を辛くも躱し、けれど直後、その陰に隠れていた別の樹に危うく激突しかけ肝が縮む。紙一重で身を捻り、なんとかやり過ごすものの、障害物など枚挙に暇がない。辺り一面に乱立する木々のあいだを、刻一刻と精神を削りながらそれでも翔ける。

「ホ、ホーネットさん! 平気でありますか!?」

「問題ない! それより今は、物理保護の強度と静粛性を保つことに集中して!」

 自分の通るコースを正確になぞる背後の仲間たちに言い捨て、ホーネットは神経を紙縒(こより)の如く尖らせながら尚も飛翔。殆ど爪先が接地しかねない低高度で、限界までエンジンの出力を落とし、針の目を縫うような正確さで以って、鬱蒼たる山のなかを翔け抜けてゆく。後方に続くのはエフワン、ドルフィン、バイパーゼロの順で、猿(ましら)の如き俊敏さと複雑さで飛ぶ今の自分たちは、傍目にはちょっとした山の怪異か何かに映るだろう。

 ここからでは段差ができているため視認できないが、左手の方向およそ一〇〇〇メートル先には、バイパーゼロが「近道」と評した細い細い国道が通っている。舗装された道、開けた空間。そちらを進めたら、どんなに事は容易いか。だが駄目だ。頭上を仰げば、樹冠の向こうには、飛び交うディアナ級。奴らに発見されるのを避けるため、LeD粒子の喚起さえ今は一定以下に抑えねばならない。心許ない強度の物理保護を頼みに、次元干渉でエンジン音にフィルターも掛け、湧き上がる恐怖を根性でねじ伏せる。口からは思わず自嘲めいた独白が零れた。

「ほんと、毎度毎度どうかしてるわね、あたしって女は……ッ!」

 だが、仕方がなかったのだ。目も鼻も利くうえ、腕まで長い敵の死角に潜り、且つ時間的制約もクリアする──元より条件が無理難題であるのだから、達成には相応のリスクを覚悟するしかない。少なくともホーネットには、他に良策を思いつけなかったのである。

 ただ、その無謀につき合わせる仲間たちには、さすがに申し訳ないことをしたなと思う。

「……悪いわね、あんたたち! こんな無茶ぶりばっかりのリーダーで!」

「いつものことであります!」「気にせんとチャキチャキ進み!」

 意識を前方に固定したまま呼びかければ、果たして返ってきた応は二人ぶんだけだった。

 エフワンとドルフィンの力強い返答は有り難かったが、しかしもっとも聞きたかったバイパーゼロのいらえが待てどもない。ホーネットは再度、後方に呼びかける。

「バイパー、道は本当にこれで合ってるのね!?」

「………………」

「バイパーッ! 訊いてんだから、ちゃんと答えろ!」

「……え? あ……あぁ、うん! だ、大丈夫! 合ってるよ!」

 まるで今の今まで別のどこかに気を飛ばしていたかのような風情。集中力を総動員しなければならないこの状況で、それはそれである意味たいしたものだと思うが、率いる側としては不安がいや増すばかりだ。彼女を最後尾に配置しておいて正解だったと思う。

「ぼさっとしてんじゃないの! 目の前のことに集中しなさい、バイパー!」

 ホーネットは厳しい語調で続けた。この作戦には彼女の誘導が必要不可欠だからだ。

 国道沿いに進んでいるからこそ、分かれ道でもあれば即アウト。山のなかでは方向感覚に狂いが生じ、大まかな方角すら掴めないため、ホーネットたちだけでは迷うことになる。霧が生じているなら尚更だ。そのうえ、一旦、空に昇って湖の場所を確認することも叶わず、今しがた敵のジャミング圏内に入ったため、もはやスマホで現在地を調べることも不可能とあっては、要所要所でバイパーゼロの判断を仰がないと、貴重な時間を大幅にロスしかねなかった。

「自分の手でパパとママのお墓を取り戻すんでしょ!? だったらまず、きちんとあたしたちを目的地まで辿り着かせて! 戦闘機少女としての責任を果たしなさい!」

「……うん! ごめん、ホーちゃん!」

 バイパーゼロが何を悩んでいるのかは知らない。自分の故郷にまた敵が現れて悔しいというなら、憤るにせよ、悲しむにせよ、いずれにしてももっと作戦に集中するはずだ。

 なのに現在、バイパーゼロを蝕んでいるのは──おそらく『迷い』。

 分からない。なぜ迷うのか。

 目的は憎きADDの撃破、ひどく明瞭であるはずなのに。

 その理由を知りたいとも思うし、なんとかしてやりたいとも感じる。

 だが、繰り返すが今は猶予がないのだ。新型メルクリウス級が産み出すADDは現在、ディアナ級しか確認されていないらしいが、脆弱な敵とて数を並べられては手が回らなくなる。そして、その一個小隊でも東京に辿り着けば、日本はもう終わりだ。LeD粒子を操れない一般の兵器では、ADDと満足に抗する術がない。東京はあっという間に火の海だろう。

 だから、ホーネットは敢えて辛辣な言葉を投げてでも、バイパーゼロを奮起させなければならない。先週の自分の体たらくを思うと、なかなかキツイ作業ではあるのだが。

「それでバイパー、あたしたちは今どこまで来てるの!? ゴールはまだ先!?」

「ううん、もう半分は過ぎてるはず! いいペースだよ!」

「おお! それなら敵の戦力が少ないうちに、叩けるかもしれないでありますな!」

「……せやなぁ! このまま何事もなく行けるなら、どすけど!」

 ドルフィンが慎重な意見を口にする。実際、安心するのはまだ早いだろう。何しろ敵が行使する例の凶悪な砲撃、その正体もよく分かっていないのだ。

 しかし、既に道程の半分以上を翔破した、というのは確かに良い報せだった。

 ならばあとは、接近して自分たちどこまでやれるか。新型メルクリウス級のスペックや配下の戦闘機型ADDの数にもよるが、四人だけで対処できるレベルならそれで良し。それが叶わなくとも、最悪、応援が駆けつけられるよう、艦砲は破壊しておかなければなるまい。

「そろそろ、おっきな谷が見えてくるはず! そこを流れる川を下っていけばすぐだよ!」

「了解! 休憩は挟まず、このまま行くわよ!」

 が、バイパーゼロの台詞にそう返し、更なる集中を心掛けたその直後である。

「「「「────!?」」」」

 ひときわ青々と繁っていた枝葉のヴェールを抜けた先で、ホーネットは信じられないような光景を目の当たりにし、たまらず仲間たちと共に緊急停止していた。

「や、まが……ッ!」

 無くなっている

 本当に、前触れもなく、ぷっつりと。

 永遠に続くかとさえ思われた深い緑の景観が、突然そこで途切れて剥き出しの山肌を晒している。延べ数百平方メートルもの面積が、完璧に禿げ上がってしまっている。

 その理由はすぐに察せられた。この地面の抉れ方は機械によるもの──大規模な工事の跡なのだ。事実、辺りには錆びだらけの重機が何台も見受けられる。二年前のADD襲撃で周辺地域から人が失せ、それでゴルフ場なりの建設が頓挫したか、あるいは元の建設会社が近くの町共々爆撃でもされたのか。とにかく、そのときからずっと放置されているらしい。

 バイパーゼロを振り返れば、彼女も顎を落としていた。やはり何も知らなかったのだろう。

 当然か。ブリーフィングで見せられた戦術マップにも、山脈にこんな空白部分はなかったと記憶している。地図を製作する国土地理院、届出を怠った各関係者、この事態を想定し切れなかった己──いったいどの間抜けを責めればいい?

 何より、一番の問題だったのは。

 自分たちが既に、その開けた空間まで進み出てしまっている点だった

「ッ、ホーネットはん!」

 もっとも早く我に返ったドルフィンの警告。だが、そのときにはもう上空を通りかかったディアナ級に、ホーネットたち四人は完全に捕捉されていた。

「この……!」

 俄かに降り注いだ砲弾の雨を躱し、エフワンがディアナ級をミサイルで仕留める。だが、一機にでも知られてしまえば、自分たちの存在は敵全体に筒抜けだ。この辺り一帯にいた戦闘機型ADDが、こちらに集まって来るのがKK波で分かった。

 斯くして、潜入作戦は失敗に終わった。

 目標まで秘密裏に肉薄するのは既に不可能。そればかりか、ここまで来てしまった以上、もはや引き返すことさえ難しい。孤立無援で敵中に、という最悪の事態だ。

「どうするの、ホーちゃん!? 戻って、また山のなかに隠れる!?」

「駄目よ! もう意味がない! 速度が出せないから、連中を振り切れないもの!」

 叫び返しながら、数瞬、ホーネットは思案して、

「……高度を取るわ! 目標までの距離は残り半分! なんとかディアナ級と艦砲射撃をやり過ごしつつ、強引にでもメリクリウス級まで迫る! それしかない!」

「「「ッ、了解!」」」

 一斉に戦闘機モジュールに火を入れる。我慢させ続けたエンジンを目一杯ぶん回す。

 諦めるものか。前に進むのだ。仮令それが危険な綱渡りであったとしても。

 ホーネットたちは空まで一気に翔け昇り、いざ目的地に向けて放たれた矢の如く──

 だが、無駄だった。

 数キロも行かないうちに、決意も覚悟も崩れ去った。

 それほどの一撃だった。

「────────────────ッッッッッッ!?」

 先触れは、遠方から届いた莫大なKK波。あらかじめイーグルから報告を受けていたため、ホーネットたちは物理保護を強固に張り巡らし、ただちに散開して衝撃をやり過ごそうとしたが、それも損害を僅かに軽くする程度の意味しか持たなかった。

 マッハ二○の曲射砲撃。それによって発生した副次効果。

 該当空域に在ったものすべてが、洗いざらいに吹き飛ばされた。

 雲も、音も、無数のディアナ級も、ホーネットたち四人も。散り散りになって宙を錐揉みし、制御を失ってあとは真っ逆さま。激痛と混乱、焦燥に絶望。千々に乱れる思考。

「……あ、が……ッ!」

 それでもホーネットが意識を繋いでいられたのは、やはり事前情報のおかげで心構えが出来ていたからか。独楽みたいに回る視界のなか、どうにか見咎めたられたのは、ぐんぐん近づいて来る山あいの深い谷と、その下を勢い良く流れる川の煌めき。

 咄嗟にLeD粒子を操作し、背中から川のなかに没する。だが、不完全な物理保護では落下のショックを殺し切れず、それで今度こそ余力を根こそぎ持って行かれてしまった。

 たちどころに遠ざかる見当識。そのなかで最後の瞬間、微かに把握できたのは、川の水の冷たさと流れの速さ。自分のすぐ目の前を横切ってゆく──

「バ……イ、パー……?」

 大切な仲間。バイパーゼロ。

 どうやら自分と同じように、この川まで吹き飛ばされたらしい。

 彼女もまだ意識があった。生きている。だが、身体が言うことを聞かないようで、脱力したまま別のほうへ流されてゆく。引き離されてしまう。そして、横目でこちらを呆と捉えたバイパーゼロの顔には、どういうわけか安らぎのようなものが浮かんでいた

 ──なんだか、このまま泡になって溶けちゃいそうだね。

 数日前、夜の屋内プールで告げられた台詞。

「……っ」

 なぜかゾッとするものを感じて、ホーネットは仲間に手を伸ばす。

 けれど、届かなかった。殆どまともに腕が動かなかった。

 そうこうする間に、人魚姫がこちらから離れてゆく。次いで、視界が無数の気泡に埋め尽くされる。本当にこのまま彼女が消えてしまうような錯覚に囚われる。

 名前を呼ぶことさえ叶わない。

 ホーネットにも、そこで限界が訪れたから。

 彼女がソレを発見したのは、まったくの偶然だった。

「──おや」

 中国地方某所に連なる深山の奥も奥。眼下を亀裂のように走る渓谷まで差し掛かったところで、そこを流れる川の端にふと異物が映り込んだのである。

 自然界のそれではない派手な色彩は、ぱっと見で人間の衣装なのだと知れた。

 更に上空から目を凝らす女性。──だが、それはもしこの場に余人がいたら、首を傾げること請け合いの光景だ。何しろ周辺には今もディアナ級が飛び交っているのに、身を隠しもせず堂々と宙に浮かぶ彼女を、どのADDも頓着する素振りが見られなかったのだから。

 視えていない。気づいていない。

 というより、気づく権利をあらかじめ『奪われている』ような、そんな不可解さだった。

 そして、ほどなく。

「ほう」

 と、彼女は感嘆の息を洩らした。厳しくも秀麗なその面差しには、微かに驚きの成分が滲んでいる。次いで、唇からハスキーな声音が紡がれ、どこか愉しげな旋律を風に流した。

「まさかとは思ったが……これはいったい、どんな奇縁だ?」

 ゆるゆると高度を下げてゆき、川っぺりの岩場に引っ掛かっていたソレを、片腕でひょいと掴み上げる。前述した派手な服だけを、というならまだしも、それを着ている人間ごとを軽々とである。女だてらに相当な力の持ち主といえるだろう。

 あるいは、単なる筋力の問題ではなかったかもしれないが。

「金髪に小躯、そして傷だらけの身体──なるほど、間違いないようだ」

 男性のような口調で彼女はぶつぶつと呟き、

「しかし、そうなるとどうしたものかな。助ける義理はまったくないのだが、私が見捨てたことが原因でこの娘に何かあれば、おそらくアイツが黙ってはいまい。機嫌を損ねる程度で済めばいいが最悪…………チッ、ふざけた話だ。現時点で既に私は、奴の尻拭いをさせられているというのに、なぜこんなことにまで悩まされなければならん」

 そうやって独りごちながら暫し考え、やがて彼女は腹を決めたらしかった。

 身に纏っている軍服めいた漆黒のロングコートが濡れるのも構わず、幸か不幸か見つけてしまった水難者をその肩に担ぎ上げたのである。

「軽いな。歳は一五だったはずだが」

 この恵まれない身体で激戦区を飛び回った、というのだからこの娘がどのような手合いか、だいたいのところは察しがついてしまう。人伝の話も加味すれば尚更に。

 健気だ。嫌いではない。

 だが。

「──まだまだ足りんぞ、F/A-18ホーネット。その程度では、まったくな」

 殊更に低く、苛烈な意志を匂わす声でそう告げて。

 彼女は、再び宙に浮かび上がった。

 その背に纏った、巨大な鋼の翼を羽ばたかせて

〈To be continued〉